「セブンソード」七剣 2005 香港

    • 砂と血と鉄の匂いがたちこめる陰鬱で暴力的な本作は、アン・リーやチャン・イーモゥらが放った、色彩に溢れ華麗で艶やかな新世代の武侠映画から立ち遅れた感のある香港映画界からの、徐克(ツイ・ハーク)なりの回答であり、アイデンティティの咆哮なのかもしれない。また、かつて香港映画を新世代の1人としてリードしてきた、一映画人としての誇りからか、ちょうど「ドリフト 順流逆流」で、呉宇森王家衛のスタイルに対して「ミッドナイト・エンジェル」の頃に遡るかのような、熱にうかされた凶暴な暴力衝動と共に回答を示した時と同じく、今回も彼は愚直なまでに己の表現方法を貫くことを止めない。
    • 実に多種多様な作品を製作しているせいか、自身の監督作以上にそれら製作作品のイメージにより、彼の映画作家としての評価が成されてしまっているが、実際はそれほど多彩で器用な映画を造る人では無いように思う。彼の映画は情熱と衝動に身を任せるが如く、荒々しく、舌足らずでありながら、力とスピードにみなぎる原始の力のようなものを感じさせる。本作も正にそうだろう。タイトルが示すように俳優やキャラクター以上に「剣」そのものが主役でもあるかのように、多様なギミックとスタイルをもって描かれるのだが、洗練され研ぎ澄まされた刀身の美しさや傷口の鋭さはなく、叩き断ち切った身体からは血と共に脂肪が油と刀を滑らすような生々しい感触が、重みを持って伝わってくる。しかしそこに、風を唄わせ共振を呼び、刀と刀が惹かれ合ったり、笛を操るように空気の流れで刀身の長さが変化したり、刃先が折れ回転したりという、奇想と浪漫が彩りを添えるバランスが徐克作品の面白さだ。 本能と幻想が入り交じりながら人間の生き様を描くのが徐克作品だとすれば、本作は間違いなく傑作である。
    • しかしながら、敵対する風火連城の武人のビジュアル的な個性の描き分けの単純さに比べ、肝心の七剣士の服装が似通ってる上に、色もなく暗く落とされた影が彼らの顔を更に隠し(スチル参照)、剣士の紹介をもう少し後のアクションシーンに設定したからだろうが、せっかくの初登場シーンもロングショットばかりでキャラクターの判別が難しい。本来主役である黎明(レオン・ライ)のキャラクター描写が圧倒的に足りないので、本人のクセの無い美形と同様に印象が薄い。単純に上映時間が長い(153分)など問題が多いことも確かだろう。
    • いつも通りといえばいつも通りだが、絶好調に劇的でかっちょいい川井憲次の音楽から期待してしまうビジュアルが、やはりアニメ的な(押井的?)かっちょいいキメキメなレイアウトになってしまう自分にあっては、ケレン味溢れるアクションシーンなどでは抜群にハマるものの、人物の内面描写などでは相性が悪いように感じた。それが徐克が目指した「七剣」の本懐なのかどうかはともかく、もっと単純なヒーローアクション物として本作がすっきりと描かれていれば、そうなる事を想定して作曲されたであろう勇壮で明快な川井憲次のサントラと齟齬を起こすことなく、異様なまでに興奮度の高い大活劇映画になっただろう。クライマックスの甄子丹(ドニー・イェン)のラストバトルは(そこでも脇にやられる黎明の可哀そうなこと…)「黄飛鴻Ⅱ」のラストよ再びと夢見てきたファンには、溜飲がさがること間違いなしの凄まじい出来で、そこからエピローグ、クレジットと最後に至るまで休む間も与えずドンドコ・ドンドコ鳴らす川井サントラと共にぐったりする程興奮するのに残念である。
    • 音楽に「エヴァンゲリオン」の鷺巣詩郎を起用していた韓国映画「武士」に近い印象を受けるが、あちらがこれでもかと主人公たちの玉砕の悲壮感を煽ってクライマックスを盛り上げたのに対し、間逆の展開を見せる所は素直にヒーロー活劇的な爽快感がある。しかし結果守るべき村人が○○してしまうのはどーなんでしょうか? 「黄飛鴻Ⅱ」で教会の大人が子供を庇って迎えた結末と同じっちゃ同じなんだが…。