「同じ月を見ている」2005 日本

    • わたしは「役者:窪塚洋介」にとても可能性を感じるし期待もしているので、こうして復帰した姿を見れるのは素直に嬉しいし、更には帰ってきた場所が「映画」だったという事が何とも嬉しいのだ。素晴らしい役者や監督や芸事を生業にする人々などというものは、何かしら狂った感覚なり感性なり才能なり行動をみせる人たちのことだと常々思っていて、他人とは違うその特異性にこそ、その才能にも価値や意味があるのだという偏見と、どんな奇行だろうが、狂った言動だろうが、空を飛ぼうが、湖の水を飲み干そうが、すべてが「作品」に奉仕するものならば無問題じゃん!という映画至上主義(まぁ映画に限ったハナシでもないんですが‥)のわたしからしてみれば、映画会社なり事務所の方々はそういったフリークスをしっかり保護して作品というカタチに昇華させてほしいし、マスコミもキチガイを狩り立てるばかりでなく、時には違う方法で芸事に奉仕してはくれないものか‥と期待もしているのだが、差別だ贔屓だ偏見だと横並びとうわべの行儀よさばかりを推奨する世の中にあっては、ますます大物が少なくなってしまい、倉庫から商品をパクったとか、大トラが救急車を呼んだとかいうケチなチンピラばかりが世に溢れ、正直わたしは落ち込んでいる。だからキチガイやフリークスを見世物にして茶化し貶めキャラ化し、あっという間に消費してしまうTVやCMが好きではない。これは冗談でも皮肉でもなくわたしの正直な気持ちなのだが、こうして書いていたらピーター版「キング・コング」があまり受けない理由も何となく判った気がするなぁ。と、いささか話しが窪塚くんから逸れてしまったが、とりあえず復帰おめでとう!というわけで本作を観にいってきた次第であります。
    • だから本作が才能を持つ者と持たざる者の葛藤と苦悩と嫉妬を描いていることは興味深い。そして復帰作にして窪塚が持たざる者の側にまわり、才能を持つ者であるエディソン・チャンを貶め汚していく役を選んだというキャスティングが何やら壮絶に思えてくるではないか。更にこの作品の白眉は貶められたエディソンが決して純粋で無垢な心の持ち主ではなく、その内側に誰よりも暗く深い闇と欲と衝動を秘めているという側面を描写した点だろうが、残念ながら深作健太監督はそういった感想を作品・画そのものから立ち昇らせるまでの演出は見せてはくれない。前述の闇にしても「バトル・ロワイヤル」の教師北野が残した絵を見せる演出をなぞることと、岸田今日子の絶妙な演技に寄りかかるばかり。「彼はいつもそこにいるよ」的なラストシーンに始まり、前時代的で古臭い音のつけ方や画一的な演出判断が多く、窪塚の飄逸な台詞回しやエディソン・チャンの存在、山本太郎の好演など役者陣の好セーブによってかろうじて踏みこたえた感があるものの、結果、画が描けるけどちょっと頭がオカシイ子と、頭が切れるが心が汚れた男と、体が弱い乙女によるただの三角関係メロドラマに落ち着いてしまったのは何とももったいない。また手術シーンや流血シーンになると今時の映画らしく妙に生々しかったり残酷な描写をするのだが、その判断がこの作品に相応しかったかというと正直疑問だ。